作品一点の中に入り込んでその中で遊ぶか、
自分の存在も含めた、作品のある空間全体の雰囲気に遊ぶか。
自分はたいてい森よりも木を見ている気がします、
当たり前なのかも知れないけど。
たまに聞かれたときなんて答えればいいか考えて、
的はずれなことを言って、あとからなんだかなあと思うことがある。
んーなんか違うこと言ってしまったなあとぼんやり思う。
好きな画家というよりも好きな一枚の絵、
好きな作家より好きな作品、
好きな演奏家や作曲家やアーティストよりすきな一曲、
好きな監督より好きな映画、
好きな美術館より好きな展覧会、
好きな国より好きな場所。
でもお気に入りの木がたくさんある森は好きなのか。
その作り手の作り出すもの全てが好き!ってことはすごいことだと思う。
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私にとって不思議なのは、森と木どっちに重きを置いているかの違いが
平衡感覚と必ずしも一致しないということで、
説明しづらいのだけれど。
ある人はとにかくたくさんの言葉や色や形をうず高く積み上げて、
それでやっとバランスをとろうとする、
でもまたある人は簡潔にごく少しのものを選んで、
それだけで絶妙にバランスをとることができる、
でも二人共通して、大きなくくりより一点に視点がある、というかんじ。
まあイコールになるほうが不思議なのか。
読むという行為は本来誤読である、ってなにかで読んだけれど
文章を書くのは本当むずかしいわー
言葉に変換するときのズレと、更に受け取る側のズレと、
どうしても気になってしまう。
でもどうしようもないな、そんなにもずれているのに崩れてしまわずに
どこかでどうにか修正されてどうにか積み上げられている。