熱の日または夜

インフルエンザにかかってしばらく寝込んでいたのですが、
ベッドのなかでスケッチをしたので記念にのこしておくことにしました。
37.7℃の高くも低くもないような熱は今朝やっと下がりました。良かった。

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目の奥にどんよりとしたあざのような痛みがある。光がなんらかのかたでもってその部分を押し込んでくるので薄眼をしてipadを眺めている。音声入力では「あざ」が「風」と表記された。風のような痛みというのもそれはそれでふさわしいような気がする。
まくらにかけたタオルがすぐずれるのはわたしが頭をひどく前後に動かすからで、それは関節痛を軽減しようと寝返りをうとうとするも大きくからだをうごかすといろいろな箇所がきしみ、赤いランプがついたようにはっきりと痛みを主張してくるためずるずると寝ている姿勢の高さを保ったまま体の向きをかえようとすると頭がそういう具合になる。
そして二枚のふとんのあいだ、ベッドのちょうど中心あたりにぎんちゃんが寝そべっていて、蹴とばさないように足を曲げ伸ばしして右側から左側へ両足をうつしたり、両足ではさむようにして仰向けになる。ぎんちゃんがいるところは少し湿ったかんじがしてぼうっと灯るようにあたたかく、ときどき足の上に前足と胸をのせるようにして寝ているやわらかな重さがとてもいとおしい。ぎんちゃんは体が大きいわりに体重は4kgと軽めで、それでも体の上をのしのしと歩いていくときは脚の一本一本にしっかりと力がこもっていてたのもしいような気もちがする。
いまはふとんをはさんでわたしの両足の間で丸くなって眠っていて、手を伸ばすとしっぽに触れた。しっぽを触ると嫌がってばたばたとふるのでなるべく触らないようにしているけれど、たまたま触れたときには芯のしっかりしたようすやそれを覆うやわらかな毛(裏側と表側で感触が少し違う)のさわり心地から、ぎんちゃんのぴんとたてたしっぽ、いちばん先がくっと曲がって毛がボワっと丸くなっている形を思い出す。ふとんの中に入っていくときなどはしっぽのカギになったところが引っかからないように持ち上げたり、少し向こうにふとんを押してからみを解いたりする。
ふとんがとても気に入ったものなので長く寝るに当たってとてもありがたい。それは一方は、つまりわたしをくるむ内側の面は白地に青い太陽、しかもにこにことした顔がついた太陽の柄で、外側は白地に青の縞が入っている。よくみると青い縞は薄い青に細い濃い青の線が縦に並んだものである。それがキルティングになっていてわたしにとって適度に重く、はりがあってさくさくとしたふとん、おそらく正確に言うならベッドカバー。
その下に、赤いチェック、柄はひどく派手で青い太陽にはそぐわないけれど液体のようにやわらかに体に沿う、ふとんカバーとその中のふとん。
少し熱が下がり体を起こす。頭の中の膨張した熱気が感ぜられなくなっているけれどその代わりどこかに隙間ができたようである。頭蓋骨のなかにいっぱいに押し込められていた蒸気がどこかを歪めてしまったのではないか。目の奥のあざのような痛みはまだ残っており目を動かすと痛むので細めておく。歩くと腰の骨がひとつひとつふちどられているようにぼんやりと痛む。痛むというより、歯でものを噛むときのような、踏みしめるような感覚でこれは痛みではなく重みなのかもしれないと思う。身体というものは重いのだなあ。上と下とが繋ぎ合わされているのだ。
母がテレビをつけておりカーリングやショーンホワイトの話をされるけれど速さに追いつけず、ふぇーえと曖昧な返事をしたら首の斜めの筋に電気が走ったような感覚があった。漫画のキャラクターの首をみると綺麗に一本線が入っているあの斜めの。後を引かなかったのでとくに緊張を感じることもなくぼんやりとしているとぎんちゃんがきてテーブルの向こうで顔をみながらないた。身を少し乗り出すとやっと顔がチョコンと見える。なくと口の中がよく見えて小さいとがった歯やひげの細かな動きや、ときどき繰り返されるまばたき、さわったときのやわらかな暖かさを思い出して手を椅子の下にのばす。すぐきて、あたまやあごの斜め下をぐっと押し付けてすぐ去る。また戻ってくる。
歯をみがいているとあたまのほうからだんだんと意識が薄れていくのがわかる。水分やなんらかのゲージがどんどん下がっていくうつわが自分の身体のかたちをしている。ベッドにのぼりふとんにくるまる、シーツはタオル地でできているし昨年寝具を見直して良いマットレスを敷いたことに自分で感謝の気もち。ふかふか。
すぐにぎんちゃんが追ってきて、枕の上に飛び乗る。入るかい、とベッドカバーを持ち上げるけれど持ち上げた上にのしのしと歩いて行きベッドカバーの上から足首のうえにのる。柔らかい重み。
そのまま少し目を閉じて、それは起こされてからそう分かるのだけれど眠りに入りかけていたところをぎんちゃんが首の上に来て、ふとんを鼻先で押す。前足を少しチョイチョイと出してくる。中に入るのね、ハイとベッドカバーを持ち上げたらさらに下を鼻先でグイグイと押してきて、わたしのいる層に潜り込むことにしたようだ。足を少しひらいてふとんを入りやすいように持ち上げると両足のあいだにそろそろと入って行く、ピンと立てたしっぽとあしとおしりが目の前にあり笑ってしまう。前足がわたしの足を越えたところで少し考えている。温度が見えているのかな。しばらく待っていると後ろ足をクイっと曲げて潜り込んで行った。場所についたあとはからだを低くしながらぐるりと半回転するようにして寝そべり、からだをわたしの足に預けている。 この、液体の満ちた柔らかい袋のような流動的な重さと体温、呼吸の動きやときどき前足をのばしたりしてくるとき、全ての瞬間や存在の、暖かさと柔らかさといっしょくたになった重量。手をすこし伸ばすと小さい舌が人差し指の先をざりざりとなめた。舌はこんなにざらざらと紙やすりの粗目のようなのに湿っていて柔らかく、首から胸、それから背中をなでると毛並みは大理石のようにつるつるしているのに同時に驚くほどふわふわと柔らかい。なにか回転しているような、もしくは沸騰している水のようなのどを鳴らす音は、昔なにかで読んだところによるとねこには聴こえない周波数の音らしい。矛盾めいたもの。
起こっていることを書いていくと書くことは常に起こることの後にあって、記述するあいだに手の動きを見たり向こうの部屋から聴こえる音に気がそれたり、書いたことを頭の中で反芻したりまた読み上げたり(反芻と読み上げは似ているけれどわたしの中では少し違っていて、反芻は牛のそれのように言語になる前あるいた言語だった曖昧なイメージとか感触とかそのときの心持ちや何かを、はっきりとした繰り返しのフレーズがきまっていない状態でどこかしら重なったり離れたりしつつ思い出し反復すること、読み上げるのは文字の状態ではっきりと頭の中で読み返すこと。頭の中で読み返すとき、それは文字なのか声なのかまた別のものなのかはよく分からない、文字というよりは姿のない声という気がする)、連想してまた元の位置に考えを戻したり、頭の中で起こることと並行してぎんちゃんがゆめか何かに驚いてあしをつっぱってわたしのあしをぐいぐい押したり、マスクがズレたり、外の光が暗くなったようすがカーテンの間の細い隙間から見えたり、暑くなったのかぎんちゃんがふとんから出てきた、ベッドカバーを持ち上げると二枚のふとんのあいだに潜ってゆき、最初おなかの上でごろごろと振動しながら箱座りをしていたけれどまた両足の間のくぼみにおさまった、とにかく記述が現実の進行に追いつくことはない。あまりにも多くのことが同時に常に進行しているし、書くという動きに関しても細かく書いていこうとするとそのことだけで膨大になってしまう。精確に記述しようとすればするほど即時性が失われて行き記憶を頼ることになり精確ではなくなる可能性がある。かといってリアルタイムで書いたものが精確ということもない。リアルタイムで書いたものというだけで、起こっていることは常にわたしの目や考え方を通してしか受け取ることができないし、そこでリアルタイムに行われている編集と記憶として定着した後思い出す際の編集の度合いの違いは結局よく分からない。精確に何かを見たり聴いたり書いたりなんてことはできないのだ。これは大昔にデカルトか誰かが言っていたような気もする。