すきなもの

好きな作品が自分の作品にどう影響するのかというようなことを友人にきかれたので考えたこと
思いつきは結局今まで見てきた全部がごちゃごちゃと組み合わさって生まれているから、好き嫌いに関わらず何か見たり聞いたり動いたら絶対影響はしているんだと思う。
でも中でも二通りあって、私のすきなものは
絶対まねできなくて憧れ焦がれているけれど追いつけないから見てるだけの、

受けた印象とか雰囲気とかが自分の根っこにからまって離れなくて、方法やアイデアを無意識か・または意識的に真似たり組み合わせる
のがあるかなと思いました。
書いててもよく分かんないけど。
でも時々自分のイメージだったか他のイメージまるまるそのまんまなのか忘れちゃうことがあって、それは怖いことだわ。
いきなりぽっと浮かんできた光景とか言葉とかがどこかで見たものだったか今思いついたものなのかの区別をするのに、引き出しをがんがん叩いて、
書類の山をかきわけて手ざわりで見つけ出すかんじ。
分かりやすいのならいいんだけど、夢うつつで見た映画とかが厄介なんだよな…
きのうは「力を使うと目の色がほとんどしろになるんだ!」
みたいなセリフが、漫画ということは分かったんだけどなかなか出てこなくて(もちろん自分の部屋とごっちゃにはならなかったけど)半日悩んだ。
海の闇、月の影?だったかな?のセリフだった!ジーンだっけな…
見れば分かるけどなんかしゃくだから調べない。


最近やっとミシンをぼちぼち使えるようになったので、縫い物がすごく楽しいです。右はミスター歯なのに母はぞうさん?と言ってた。

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おしらせ


第4回アジア海洋映画祭イン幕張
http://www.amffm.net/index.htm
ポスターの絵をかかせていただきました。
年に一度海が映画をつれてやってくるオマツリの日というかんじです。

梅の雨

そしてもうすぐ暑い季節がやってくるわ…どんより。
先日初めて、友だちの結婚式をお祝いしてきました。
おめでとう感慨ぶかいなあ。じーん
二人ともすごくお似合いで、人に楽しんでもらおう!っていう
工夫に溢れてるかんじで幸せな気もちになりました。
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あと上海にいってきた!
二つの全く別のものが混ざりあっているかんじがすごくおもしろくて、
すごくクラシックな石造りのきれいな建物にごちゃごちゃと洗濯物が広げてあったり、
長江をはさんだ古い街と新しいビルの森、
西洋風で中国風なたてもの、
廃墟のうしろに最新式のビルが聳え立ってたり。
でそれらの絶妙なバランスのたてものにくっついてるやたら大きいネオンサイン。
曇り空に連凧があがってて、人が多くて、それらと私のちぐはぐなかんじ。
が、全部混ざり合って魔都の雰囲気。
私の想像の上海は王安憶が書いていた世界の雰囲気のままで、
実際の豫園はすごくたのしかったけれど、見たら満足してしまって
来たあとだったら「上海ノスタルヂィ」は描けなかったのかも知れないなと思いました。
ふつうに現実にとけこんでるとこなんだなあとびっくりした。
(スターバックスとかマクドナルドが建物の中に入ってたりとか笑)
本の中の世界はやっぱり実在のところでも私にとっては大概とてもあいまいで
ファンタージェンと繋がっていて、決してたどり着けないところになっているんだなと思った。
川沿いを歩いていると時をつげる鐘が聞こえてきたりして、そういうのがすごく残る。
景色とかはきっとすぐ忘れていってしまって、でもおぼろげな記憶くらいの方がいいのかもな。
あと窓とかがかわいかった!
そしてとても人にお世話になりましたありがとう。
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ところで東京のネオンサインばっかりの写真集ってあるのかなあ。
今すごくほしい。

森と木と平衡感覚

作品一点の中に入り込んでその中で遊ぶか、
自分の存在も含めた、作品のある空間全体の雰囲気に遊ぶか。
自分はたいてい森よりも木を見ている気がします、
当たり前なのかも知れないけど。
たまに聞かれたときなんて答えればいいか考えて、
的はずれなことを言って、あとからなんだかなあと思うことがある。
んーなんか違うこと言ってしまったなあとぼんやり思う。
好きな画家というよりも好きな一枚の絵、
好きな作家より好きな作品、
好きな演奏家や作曲家やアーティストよりすきな一曲、
好きな監督より好きな映画、
好きな美術館より好きな展覧会、
好きな国より好きな場所。
でもお気に入りの木がたくさんある森は好きなのか。
その作り手の作り出すもの全てが好き!ってことはすごいことだと思う。
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私にとって不思議なのは、森と木どっちに重きを置いているかの違いが
平衡感覚と必ずしも一致しないということで、
説明しづらいのだけれど。
ある人はとにかくたくさんの言葉や色や形をうず高く積み上げて、
それでやっとバランスをとろうとする、
でもまたある人は簡潔にごく少しのものを選んで、
それだけで絶妙にバランスをとることができる、
でも二人共通して、大きなくくりより一点に視点がある、というかんじ。
まあイコールになるほうが不思議なのか。
読むという行為は本来誤読である、ってなにかで読んだけれど
文章を書くのは本当むずかしいわー
言葉に変換するときのズレと、更に受け取る側のズレと、
どうしても気になってしまう。
でもどうしようもないな、そんなにもずれているのに崩れてしまわずに
どこかでどうにか修正されてどうにか積み上げられている。

きつねのよめいり


きのうできあがったコラージュ作品の部分。
「きつねのよめいり」
すごく久しぶりに全然違う絵をしあげたのですが、
もっと別人が作ったようになるかと思いきや、あんまり変わらないもんなんだなと自分では思いました。
楽しかった☆
英語訳だとsun showerとかになっちゃうみたいで、
そういう、その国だけの言い伝えからきてる名前とか言い回しっておもしろいです。
そういえば寺山修司の未発表歌集を読んでるのですが、一ページに一行の文字が、
しずくがぽーんと落ちるようで波紋がずっと遠くまで広がってゆく感じがします。
視界いっぱいのぼやぼやをぎゅっとここにつめたような。
たくさんのお話が入っているようです。
表紙の紙質以外はすごく好き!
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ところでやっと「13月のうぐいす」をアップしました。
ほんとに遅くなっちゃってごめんなさい!
紙が三枚スキマをあけて重なってる、舞台装置みたいなかんじの絵なのですがどうもうまく見えないかな。
もっといい写真をとれたら差し替えようと思います。
なんかぼやっとしてるし。
むしめがね機能がつけられればいいんだけど。
紫がにごっている。

ぎんだら

ぎんちゃん(ねこ)は、ちょっと目がさめて私がいないと、
お気に入りのマウスのぬいぐるみをどこからか見つけてきて、くわえて、
くわえたまんまで鳴きながら探しにきます。
くわえてるからちょっと声がこもっていて、
「ぎんちゃん!」
呼ぶとそれをポトっと落として、たたたっとだんだん速く駆け寄ってきて、
足元をすりーすりーと8の字を書いて頭をくっつけてくる。
そりゃもう、あーかわいい。

こういうらくがきがそこら中にいっぱいばさばさ。
次の誕生日がきたらぎんちゃんは人間年齢で私より年上になるみたいで、
なんだかその時間の流れの違いは時々数字になって出てきたりして、
考えこむとどうしようもなくて息苦しい、
悲しいというか愛おしいというか「カナシ」というかんじがよく分かるような気がする。
今朝ハハがそのぎんちゃんを抱っこして、言いました。
「ねこって背骨ないんでしょ?」
本当にたまにだけれど突拍子もないこと言うからおもしろいなあ。
まばたきしないんだねとか、時々私と呼び間違えたりとか。
先日は父が、本棚にのぼっていばっている彼をみて
「ふくろうみたい」
と言ったその同じ日の夜に、彼女はそこにいなかったのに言いました。
「ぎんちゃんてふくろうちゃんみたいね」
おお夫婦ってこういうものなのかーと、ちょっと感動した。
あざらしじゃなくてふくろうだったわ。

違和感のありか

絵をかくとき、「これ!」っていう迷いない決断があるわけじゃなくて
たいていは「違和感」てやつのガイドがあって色をぬったり線をひいたりする。
これ違うな…って手探りですすんでゆけば絵は完成に近付くけれど、
どうも日記の違和感をどうすればいいのか分からない。
誰にむかって話しかけてるのか、
話し言葉か書き言葉か、
独り言でいいと割り切るにはやっぱりこの、キーボードに向かってる形は
変。変である。変だ。変です。変じゃない?変だよね。変に思う。
ゲシュタルト崩壊。
読み物であれば、それなりに見栄えの良い言葉を選んで
丁寧に、回りくどい言い回しで、ない物もあるように描けば良いでしょう。
自分だけの紙の日記だったら、キティ的なだれかか自分にあてて、
あったこと思ったことをずらーっと書いてる。特に違和感なく。
<夢:クローゼットの箱の上に埋め込み式テレビ、服にうもれている
今日は風がすごかった。又三郎読も!もう春かーはやいなあ>
けれどインターネットの世界の中で文に違和感があるのは、
不特定の他者に対する自分てやつがはっきりしないからなんだと思う。
自分がふだんしてる言葉づかい、癖、表情、考え方、反射、感情、
なんにも分からない知らない人。ふだん?
誰かに向かうことでやっと呼応して鏡みたいに自分ができあがる。
自分が考えてることは必ず誰かも同じときに思いついてて、
ということは私は誰かしらの思考をつぎはいでできてるだけの
誰でもない人なんじゃないだろうかと思ってしまう。
まあ最終的には「我思う、ゆえに我あり」なんだろうなあ。
やっぱり違和感だらけ。

うぐいす



去年から描いてた劇場の絵が、先日やっと完成しました。3枚組み。
「13月のうぐいす」。
春が本格的にやってくる前に仕上がってよかった〜★
ちょうどうぐいすが鳴きそうな。
ちゃんと写真できたら合わせてサイトにのせようと思います。
まいど更新のろのろで自分でもびっくりです。
今日久しぶりにPC開いてみたらメールが667件もきていたよ…
スパムメールのはじき方がわかんない、どったの先生。どうしましょう。
絵のきっかけというか根っこは、
<現実とおとぎ話は実はそんなに変わらないんじゃないか>ということで、
絵のなかに何か話があって、舞台上からこっちを見てる人がいて、
それを見てる人やら記述してる人がいて、
それをさらに記述してみている観客の人が私たちの舞台の外にもいるのだよね
と、劇場の絵にしたはず。
(しょっちゅう思うことだけれど、今自分で書いてても、
アーあたしの構成要素にはエンデがタップリだわと思った)
演目は『うぐいすの宿』にしました。
1月〜12月の座敷のかわりに『森は生きている』の月たちがでてきたりとか。
だからロシア衣装なんだけど季語の模様をいれたりして楽しかった♪
13番目のドアは開けちゃいけないのだけど、
でも開けなかったらそもそもきっとお話にならないから、
それを開けちゃうことで前の過程が全部つながったプチ歴史(お話)になるのかな、とか。さ。
いろいろ考えるのですが、最終的には動く絵というか
よそみしてる間に
「あれ?こっちの方ちょっとさっきと違くなってない?」
みたいなたのしいのが描きたい。と、最近思います。
中に逃げ込めるところ。
空白を補って自分と対話したりとか、こわい。
ぎんちゃんはイーゼル使ってるときはひざにのぼって絵をのぞきにきますが、
広げて描いてるとたまに絵の上にのべーっと丸く居座っちゃうので
コラって言うけれどかわいいからニヤニヤしちゃう。

ごはんと色ぬり

近ごろ気づいたことには、
私はごはんを食べるとき、いわゆる「三角たべ」
(ごはん、おかず、汁物、ごはん、おかず…って食べ方なはず)
がどうもできなくて、一品ずつ順番に平らげちゃうことが多い。
も一つ、色をぬるときにもやっぱり一ヶ所ずつ仕上げてから次の場所に移る。
ざっと何ヶ所かに色をのせて、とか、うーん未知の領域。
どっちも単純に「混ざるから」ってだけだと思うけども、
ピカソのごはんの食べ方とか気になるなあ。
あらゆる方向から食べるとか。
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春が近付いてきたからか理由はよく分からないけれど、
去年は白黒ばっかりきてたのにやっと色らしいものが着たくなってきました。
今年はどうやら青と灰色が好きみたいです。
その前は緑やら紫やら、なんだったっけな。
なんか年によって自然と集まっちゃう色があってふしぎ。
もしかしたら今白黒にちかい絵をかいてるから、それも関係してるのであろうかね。
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ひそやかにsyrup16gが好きで色ぬるとき良く流れてたのですが、
解散なんてさみしいなと思ってアルバム聴いたら
なんか予想外にすごくじんみりした。じんみり。
かなしい…
何人か集まって何かを作るってはじめから終わりの予感があって、
その不安定なかんじがいいのかなとも思う。
ほんとさくらみたいなかんじ。センチメンタル。
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むしば対策を自分なりに考えて、餌付けみたいに砂糖を別にあげればいいんじゃないかと歯医者さんに言ったら失笑されました。
別にかじってるわけじゃなくて、砂糖を分解するときの強酸が原因だそうな。
そういえばそんな絵本よんだかもしれない。
でも完全にむしば=虫食いのイメージ。「むしば」だし。
そして歯医者さんてなんであんなに怖いんだろう。歯はかわいいのに、形とか。
しばらくぎんちゃんと二人ぐらしです。

ひとめぐり

父が還暦をむかえました★おめでとう!!
例によって感慨ぶかいのに全然何書いていいか分からないのだけどすごいな一巡り。
こんなとこに書いてヤダヨーって言われるかなあ。
でも、なんだか私が生まれるずっと前から歴史があって、
私をまきこんで流れてるっていうのが変なかんじ。
あるいは私に意識ができたあとにその前と、後の歴史ができたのかもしれないと時々思います。それか毎日、1秒ごとに、連続してるかのような記憶が作られてるのかも。(lainみたい)
何か新しいこと考えつきたいなあ。
あ、よく聞かれるのですが、
何か思いつくのはオフロに入ってるときが多いです。
出どころは自分でもよく分からないけれども。
あと「脳みそ」ってなんかすごい表現だと思う。
とにかく色々ひっくるめておめでたい日でした。
やっぱりお誕生日はなんだかうれしいね。